テロリストになって銀行強盗した世界的大企業の美人令嬢に一体何が?
アメリカのメディア・コングロマリット、世界最大級の企業グループの一つであり、推定総資産4兆4200億円、世界のメディアの半分を支配すると言われる『ハースト・コーポレーション』の創業者で”新聞王”ウィリアム・ランドルフ・ハーストの孫娘パトリシア・ハーストはカルト・テロ組織SLAに加入し2人の一般市民が射殺された銀行強盗の実行犯として1年間の逃亡生活を経た後に、1975年9月18日にFBIにより逮捕された。何不自由なく育ち、アメリカ有数の大企業の超美人令嬢として未来の後継者として育てられたパトリシア(当時19歳)は婚約者と同棲中、順風満帆の人生に一体何が起こったのか。
■ 序章:パトリシアの生い立ちと家柄
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パトリシア・ハーストは、1954年2月20日に、”新聞王”ウィリアム・ランドルフ・ハーストの長男、サンフランシスコの新聞社『サンフランシスコ・エグザミナー』社長、ランドルフ・アパーソン・ハーストの三女として生まれる。
最高クラスの裕福な一家で、米カリフォルニア州で何不自由なく育ったとされている。大学生になって出来た恋人で、婚約者も同じく大企業の御曹司であり、愛し合う2人は両親の許可を得て同棲していた。
事件は全米でもトップクラスの富裕層と最低クラスの貧困層が混在する都市ロサンゼルス、日本の1.1倍の面積を占めるカリフォルニア州で起こった。
■ 第一章:美人セレブ令嬢を誘拐したテロ組織SLAとは
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それは、1974年2月4日、午後9時20分を回ったところだった。当時婚約中の大企業の御曹司とロサンゼルス市内の高級アパートで同棲していたパトリシアと御曹司は、夜遅くの玄関のチャイムに不審に思いつつも、意を決してドアへ行くと、そこには女性が立っており、家の前で車が故障したから電話を使わせてほしいと頼んできた。
女性だと思って安心して扉を開けると後ろから拳銃を持った男達が雪崩れ込んできて、女性もパトリシアと御曹司に銃口を突き立てた。
「大人しくすれば悪いようにしない。」と言われ、パトリシアだけ連れ去られてしまう。
事件発生から3日間、犯人から全く連絡がなかったが、3日後になってようやく地元バークレーのラジオ局の『KPFA』に犯行声明が届く。それによると、身代金の代わりに要求されたのは、「カリフォルニア州(1974年人口2117万人)の貧困層40万人にそれぞれ70ドル分の食料を与えろ」という前代未聞の要求をしてきた。
そしてそこにはパトリシアの弱った肉声で「パパ、、ママ、、彼らの要求を聞いてちょうだい。」とテープが入っていたのだ。そしてこれを放送しなければ娘の命はないとのテロリスト側の主張を飲んで、FBIが見守る中、犯人側の要求を読み上げるパトリシアの肉声をラジオで生放送した。
犯行グループは、SLA(左翼過激派シンバイオニーズ解放軍)という貧富の差を無くし、共産主義を掲げる為には殺人もいとわない、西海岸で名の知れたテロリストだったテロ組織だったのだ。
■ 第二章:2週間後、変わり果てたパトリシアの写真に絶句
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パトリシアの父ランドルフ・アパーソン・ハーストと母キャサリン・ウッド・キャンベルの家には既にFBI(アメリカ連邦捜査局)が捜査を開始していた。しかし、カリフォルニア州の貧困層40万人への食糧配給を用意するのは容易ではなかったが、集められるだけの現金を集めて、実際に2週間に渡り、約10億円ほどの食糧配給を行った。しかし貧困層はまだ足りないとロス市内で暴動が起こり始めていた。
アメリカの貧富の差が激しい原因の一つと言われる真偽は別として、「1%の富裕層が99%の富を独占している。」というフレーズが当時から出回っていたのかもしれない。
しかし2週間経っても犯行グループから連絡が無かった為に配給をストップせざる負えなくなった。
そんな折、やっと犯行グループから連絡が入った。2週間もの間連絡をしてこなかったテロリストグループが送ってきた封筒にFBIと家族は絶句した。
なんとその封筒にはパトリシアの変わり果てた写真が添えられていたからである。
パトリシアは、なんと肉声テープで「パパ、ママ、お前らファシストの豚どものせいで、貧困層が苦しめられている。私はこれから貧困層を無くすためにSLAと共に生きていくことにした。私のことなんて大事じゃなかったんだろろ。」と驚くべき発言をしてのけたのである。そして婚約者を”セックスアニマル”と罵ったと記録がされている。
このテープが公開された直後に、婚約者の御曹司は、このニュースを知り、パトリシアの両親に婚約破棄を申し出た。
■ 第三章:パトリシア、SLAと共に、銀行強盗を決行
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誘拐から2ヵ月以上経った、4月15日、SLAのメンバーはサンフランシスコ北部にあるハイバーニア銀行サンセット支店を襲撃し、2人の一般市民が射殺されて亡くなった。
そしてこの事件の防犯カメラ映像に自動小銃を構えて行員に大声で支持をする覆面無しのパトリシア本人がバッチリと移されていたのである、あまりにも堂々とした犯行にFBIや両親だけでなく、全国テレビ放送されたその映像に全米市民が驚愕した。
誘拐からわずか2ヵ月で、世界クラスの富を持つ清楚で美人な令嬢は、紛れもなく殺人テロリストへと変貌を遂げてしまったのだ。
これにより、FBIは、パトリシアが洗脳されているかもしれない可能性を考慮しつつも、パトリシアを指名手配せざる負えない事態に。アメリカ中の媒体にFBIの指名手配が掲載され、また「タニア(パトシシア)」は悪くないというファン達も同時に現れるようになった。
■ 第四章:FBIがSLAのアジトを急襲し焼け跡から遺体
銀行強盗から1ヵ月、5月17日、FBIは威信をかけた捜査によりSLAのアジトを探し出し急襲した。SLAはすぐさま応戦し、激しい銃撃戦が行われ、結果、アジトは焼けた瓦礫と化し、その瓦礫の中からSLAメンバー6名の遺体が発見された。
これによりパトリシアの死亡が確実視されたようであったが、なんとパトリシアの死体は無かったのである。
なんと運が良いことにパトリシアとSLAの数人のメンバーは丁度アジト急襲の前に買い出しの為に外出をしていたことにより難を逃れた。
翌1975年9月18日、カリフォルニア州サンフランシスコにて1年以上に及ぶ逃亡生活の果てにパトリシアはFBIに逮捕された。この時拳銃を突き付けられたパトリシアは失禁をしてしまいその場で着替えを許可された。
■ 第五章:パトリシアの洗脳手段 or ストックホルム症候群だったのか?
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しかしそれでも逮捕されたパトリシアの態度と眼差しはテロリストそのものだったという。
取り調べで明らかになった事実としてパトリシアはSLAの中で恋人を作り、生活をしていたということだった。そして思想は完全にSLAによって再教育がなされていたのである。
SLAはパトリシアを誘拐直後、2週間もの間目隠しをさせ続けて、食事もメンバーの手ほどきにより与えられた。常に大声で脅迫される中でパトリシアはテロリストの本気度を認識しいつ殺されてもおかしくないということを自覚していった極限状態に置かれていたという。
そして目隠しを外すことが許され、やがて少しの時が経つと、「パトリシアに危害を与えれるな!」と守るメンバーが現れたという。そこでメンバー内で銃を振りかざす対立が起き、パトリシアは守ってくれた男性に心を寄せていくことになり、それ以降メンバーの態度は急変して優しくなり、パトリシアはSLAの教育セミナーで思想を教わり、”タニア”という新しい名前(キューバ独立運動の革命家チェ・ゲバラと共に戦った女性兵士の名)を授かり、共にメンバーになる事を丁重に歓迎されたという。SLAのメンバーはなんと教育水準の高い中上流階級の白人が主要メンバーをなしていたのだ。
しかし、これらは全てSLAの経験から体系化された洗脳手段だったのである。生死の極限状態に置かれ続けると、「○○時間でどんな人間でも理性が崩壊することが明らかになっている。」と専門家はテレビで解説をした。このような状態で優しさに触れ、丁重に扱われるようになると、生存本能からか、すぐにそちらになびいていしまうというのである。これらの試練は、世界で入隊基準が難しいとされる世界最高クラスの特殊空挺部隊「SAS」(イギリス)の最終選考でもこのような理性崩壊実験とそれに耐えうる人選が行われているという。当然の如く、世界で最も難関の試験の一つと言われ多くが脱落するという。
しかしパトリシア・ハーストはストックホルム症候群だったのではという見方も強い、ストックホルム症候群とは、誘拐事件や監禁事件などの被害者が、犯人と長時間共に居る内に犯人に同情したり好意を持ったりすることだ。いずれにしても、異常な監禁状態で精神が錯乱し理性が崩壊することは多くの人が語っている。
■ 第五章:パトリシアの裁判、ハースト家の威光
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逮捕の翌年に裁判が始まるとパトリシアの洗脳が解けたのか、一変して無罪を主張した。事件はアメリカ社会が固唾を飲んで注目した社会性の高いものだった。
パトリシアの弁護士はパトリシアはSLAによりマインドコントロールされていたと主張したが、陪審員達は、一般市民2人が射殺された銀行強盗の現行犯であるパトリシアに懲役35年の有罪判決を下した。
しかし、ここからがアメリカトップクラスの大富豪一族ハースト家の力を世界は思い知ることになった。
ハースト家と関係がある後の大統領となる当時のカリフォルニア州知事ロナルド・レーガンや、西部劇俳優ジョン・ウェインらが、パトリシア・ハースト釈放の嘆願書を裁判所に提出した結果、懲役7年にまで刑は短縮されたのだ。
さらにカーター大統領による特別恩赦と保釈金約1億5千万円を支払うことで1977年1月19日に仮釈放を実現、拘留・服役期間は逮捕時から換算しても1年4ヵ月だけであった。
犯人が殺人・誘拐を積極的に犯すテロリストグループであることを考慮し、自宅を襲撃されて誘拐された上に死の危険に晒された19歳の何不自由なく育ったお嬢様の女性パトリシア・ハーストの「仲間のふりをすることで生き延びた。」という証言は、やはり同情に値することかもしれないし、刑は妥当なものだったかもしれない。
時間が経つうちに逃げるスキは沢山あったことが判明しているようだが、彼女の脳裏には逃げたとしてもまた誘拐されるという恐怖があったかもしれないからだ、女性には非常に難しいところだったと思う。
🎥 パトリシア・ハースト誘拐事件、当時の映像を振り返る
■ 最終章:パトリシア・ハーストの現在はハリウッド女優
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パトリシアは22歳で出所後、積極的に事件のインタビューに答えていった。
そして25歳で当時パトリシアのボディーガードを務めていたサンフランシスコ警察の警官と恋に落ちて結婚。
パトリシアは現在ソーシャライトとして女優として、「シリアル・ママ」始め、6本のジョン・ウォーターズ監督作品に小さな役で出演している。推定総資産は4500万ドル(約53億円)という大富豪である。
パトリシアの警備を担当していた元警官の夫は、現在ハースト財団の警備を担当している。
長女ジリアン・ハースト・ショーはハースト社に勤務しつつソーシャライトとして社交界で活躍、次女リディア・ハースト(31)は母譲りの美貌を活かしてスーパーモデルとして活躍している。
この事件は1988年に脚本家ポール・シュレイダーにより『Patty Hearst 』として映画化されている。