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ブルース・リーまとめ(生い立ち,トレーニング内容,死因の謎)

筆者は、様々な人物の記事を書いているが、映画俳優としてよりも、戦う人、本物の格闘家としてのブルース・リーに誰よりも心酔している自負がある。

少年期から渡米する18歳までは戦後混迷期の荒れた香港で有名なストリートファイターでありアメリカで道場を開き数々の挑戦者を叩きのめし有名を轟かせた、実戦の中で鍛え上げられた本物の生きた格闘術の使い手がブルース・リーである。

ブルース・リーはなぜ今もなお世界中で敬愛され研究され続けているのか?それは、“小よく大を制する“、を体現した数少ない格闘家だからではないだろうか。

ブルース・リー(享年32)のまとめ特集を、マニア向けではなく初心者にも分かるように分かり易くお伝えさせて頂く。

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ブルース・リーの生い立ち

ブルースリー 肉体

ブルース・リー(李小龍)は1940年11月27日、広東演劇俳優で映画製作者の父の李海泉と、ドイツ・中国人のハーフの母親グレイスとの間にサンフランシスコのチャイナタウンにて生まれた。

生後3か月でサンフランシスコで制作された中国映画『金門女』に出演。

その後イギリス占領下の香港に家族で帰国、第二次世界大戦終了後、8歳頃から父の仕事のアルバイト子役として数多くの映画に出演した。

中国武術、カンフーの『詠春拳』を超有名な武術家、葉門(イップマン)から教えを受けて幼少期より身に着け、少年期には戦後の混迷極める香港で有名なストリートファイターだったという。

イギリス占領下の香港では当時1%のイギリス人が90%の富を生み出す要職についており、香港人はイギリス人の下働きであった。その将来への絶望からブルース・リーは不良になったと語っているが、カンフーを覚えては師イップマンの教えに背き、特に子供にとっては無法地帯である香港で喧嘩を繰り返す日々を送った。そして、とうとう高校を退学になってしまう。そんな悪名高きブルース・リーはついに父の命令で18歳で単身渡米とされてしまう、この時、所持金わずか1万円(100ドル)だった。

シアトルで新聞配達をしながら高校卒業後、アメリカでも中国人差別の厳しい現状に悩み一念発起して一年間猛勉強し超名門ワシントン大学の哲学科に進学を果たす。

ブルース・リーは東洋の哲学にのめり込み、ワシントン大学では哲学の講師もしていた。

「振藩國術館」を開いて中国武術の指導を始める。この時、カンフーを基にしたブルース・リーの武術であり哲学、「ジークンドー(截拳道)」が始まった。

ジークンドーとは、カンフーが原型となる截拳道(ジークンドー)の特徴は「受即攻」であり、攻撃を防御するのと同時にカウンターで相手に打ち返す、もしくは受けの形がすでに攻撃になっている優れたものである。

この戦後の時代にアメリカで武術道場を開くのは相当な実力者でなければ、日々争いの中に身を置き全人種が混迷し犇めき合う屈強なアメリカ人達に簡単に道場破りされるために不可能であったのは容易に想像が付くが、実際に空手道場主など幾多の商売敵とも決闘をして勝利を積み重ねている。

道場を開いて間もなく、同じワシントン大学の医学生であり、ブルース・リーの教える道場の生徒だったスウェーデン系イギリス人リンダ・エメリーと結婚。

ブルース・リーの妻リンダと息子

その後、ワシントン大学を中退し、道場経営に専念。

ハリウッドスターへの道は困難を極めた


強い東洋武術の道場の噂がアメリカ人の間に広まりチャンスが訪れた。徐々にアメリカで関心が広まっていた東洋武術。1966年、アメリカの「ロングビーチ国際空手選手権大会」で詠春拳の演武をしたブルース・リーの映像が、ハリウッドのプロデューサーの目に留まる。

そして、ブルース・リーが24歳の時に、アメリカの人気TVドラマ『グリーン・ホーネット』の準主役で日本人役カトーとして抜擢される。このテレビドラマは大ヒットしたがやがて打ち切りとなり栄光は束の間となってしまう。

これ以降、スティーブ・マックイーンを始め当時の超一流ハリウッド俳優がブルース・リーの道場にこぞって入門し彼らに武術指導などをするようになり、ブルース・リー自身もTVやハリウッド映画などのゲスト出演を重ねるようになる、

ブルース・リーはアメリカで『燃えよ!カンフー』を企画し、自ら主演を申し出たが、東洋人であることが理由に叶わなかったとされている。

そして、東洋人としてハリウッドスターになると宣言しているブルース・リーには受難の日々が訪れる。

致命的な故障、そして香港からチャンスは生まれる。

ブルース・リーが30歳になる頃、トレーニング中に脊髄の下部にある格闘家として命である部位、仙骨の神経損傷という引退を余儀なくされる致命的な故障に見舞われる。半年間、家に引きこもり道場経営も失速し収入のほとんどを失ってしまい妻リンダが事務員として稼ぎに出る収入で息子ブランドンを育てつつ失意のどん底にいたブルース・リーは香港を家族に見せる為に一時帰国することとなる。

しかし、その頃、香港ではTVシリーズ『グリーン・ホーネット』が再放送されておりブルース・リーは一躍時の人として香港一のスター待遇で帰国を迎えられるという意外な展開を迎える。その後香港の映画会社と契約し、1971年に初主演映画『ドラゴン危機一発』で一躍香港映画スターとなる。

香港で絶大なスターとなったブルース・リーの名声はハリウッドにも届いており、映画企画の中で白人至上主義のハリウッドだったがとうとうブルース・リーを本格的なスターとして売り出す決定が秘密裏にくだされていたと伝えられている。

ブルースは映画3作目以降から自ら撮影指揮、武術指導、監督と全てをこなすようになっていた。と同時に香港1のスターに登り詰め、日常生活で出歩くことが難しく、大金はあれど「まるで監獄の中にいるようだ。」と漏らしていたという。

ワーナーブラザーズ(米国)とブルース・リー自身が設立したコンコルド・プロダクションとの合作映画『燃えよドラゴン』が企画され、撮影中であった、『死亡遊戯』の製作は中断された。

ブルース・リーが死亡した1973年の1月からアメリカと香港の合作映画『燃えよドラゴン』の撮影が始まる。

この時のリーの意気込みは並大抵でなかったとされている。この時期のブルースはトレーニングしながらTVをみるなど、常に2つのことを同時にこなし自身の死期を悟るがの如く生き急いでいたという。

いつ仙骨の故障が再発するか分からず己の肉体の身が唯一の商売道具であり、ブルース本来の目的であるハリウッドに認めさせる作品を創る為に自らを追い込み続け、撮影スタッフと暴力沙汰になるほど徹底した探求心で映画撮影に当たった。

ブルース・リーの死

しかし、我々が知るブルース・リーの伝説とは裏腹に、終わりはすぐに突然やってきた。

1971年に香港映画デビューを飾り、我々が知るブルース・リー映画の全てを2年間で創り上げ香港で一躍スターとなった渦中。

1973年7月20日、ブルース・リーは、『死亡遊戯』で共演予定の愛人とされていた女優ベティ・ティン・ペイの香港の自宅で頭痛を訴え、

ベティ・ティン・ペイ

鎮痛剤を飲んでベッドに横になったが、そのまま昏睡状態に陥ったため、そのまま病院へ搬送され死亡が確認された。(死亡時の状況には諸説があるようだ。)

32歳の短くも偉大なる生涯であった。

今でも世界中で畏敬されるブルース・リーが32歳の若さで亡くなっていたとは意外でだった。

葬儀はシアトルと香港で行われ、遺骨はシアトルに埋葬された、この時シアトルの葬儀には有名なハリウッドスターで弟子であるスティーブ・マックイーンなども参列した。

ブルース・リーの死後、リーが生命の全てを降り注いで創り上げた主演作『燃えよドラゴン』がアメリカを始め世界中で公開され大ヒットし世界的知名度が上昇し始めた。

これを皮切りに過去のブルース・リーの主演映画が世界各地で公開されブルース・リーは正真正銘のハリウッドスターとなった。後にハリウッドの殿堂入りも果たしている。

しかし、この時すでにブルース・リーは亡くなっていた。日本でもブルース・リー映画は死亡した年の1973年からであり、死亡した後に公開されているのである。

息子ブランドン・リーの死因と『死亡遊戯』の不自然すぎる類似点

死亡遊戯

さてブルース・リーの遺作である、死亡遊戯(1978)

ブルース・リーの未完の遺作となった「死亡遊戯(1979)」。

クライマックスのアクションを撮影後にブルース・リーは謎多き死を迎えてしまったのだが、

ブルース・リーが劇中で演じた自身とダブる役柄の”世界的なアクション映画スター”のビリー・ローは、ストーリーの中で、

映画撮影中に銃で撃たれるシーンに陰謀により実弾が入っていた為に暗殺されてしまう。

実際は暗殺されたと見せかけて葬儀も執り行い、後に暗殺者である巨大国際シンジケート組織を追い込んでいくというストーリー。

実際にこの映画を撮影中に、疑惑の死を遂げたブルース・リーも実は映画の中の境遇そっくりな状態だったのだ。

そして、なんとブルース・リーの息子で俳優のブランドン・リーは、

1993年に映画『クロウ/飛翔伝説』の銃撃シーン撮影中に、

なぜか実弾が挿入されていたことにより、28歳の若さで亡くなっている。

ブランドン・リー
ブランドン・リー

奇しくも、父が演じた「死亡遊戯(1979)」の劇中と全く同じ死に方をしているのだ。



ブルース・リーの武術

まずはブルース・リーが映画俳優としてでなく、カンフーの真の武術の実力者であったことが良く分かる動画を見てもらいたい。

とにかく動きが速い、神速で有名なブルース・リー

📹指立て伏せ、パンチ、ヌンチャク卓球が凄すぎる希少映像

ブルース・リーのヌンチャクは映画用に覚えたものであるものの本当に凄い。ヌンチャクでくわえタバコに火をつけてますね。本当に凄い。



ブルース・リーのトレーニング

イメージ 2

ブルース・リーは映画俳優である以前に、武術家、ストリートファイターであったため、ロケ先のホテルでもトレーニングを怠らなかった。

とくに握力トレーニング、そしてパンチを速く打つとレーニングを積んだという。ブルース・リーのパンチと蹴りの速さは非常に有名だ。そして威力も半端なかった。

また当時の東洋人としては珍しく、また細身の体とは意外にも画像にあるようにウエイトトレーニングをかなり細かい知識の上で行っていたようだ。

ブルース・リーはスピードと破壊力の両方を重視していたに違いない。しかしその上でアメリカで認められる為には肉体の迫力というものを重要視していたという証言をTVで筆者は聞いた。

目的を意識したウエイトトレーニングはスピードアップ、身体能力向上に有効であると神速ブルース・リーは当時からすでに見抜いていた。

筆者は遡ることPRIDE時代からUFCを始め、格闘技の動画を相当な数見てきており、自身も格闘技を生業としているが、筆者の知る限り、ブルース・リーのパンチは世界最速レベルだと思う。しかしながら、パンチのコンビネーションまでを含めると巨体ながらマイク・タイソンのパンチ、シャドーボクシングは有無を言わせぬ史上最速に思う。

ブルース・リーの格闘哲学は一時代に人類最強を名乗ったヒクソン・グレーシーなど多くの格闘家に今も影響を与えており、ヒクソンいわく「ブルース・リーの格闘哲学は100%だ。」と発言している。本物が行き着く境地は一つであり真理なのだろうか。

ブルース・リーのパンチ

ブルース・リーのパンチデモンストレーションは『グリーン・ホーネット』のオーディションの時の24歳頃のものであり、スーツ着ながらこの神速だ。

それだけに、神速のブルース・リーのトレーニングメニューは凄まじかった。1日にキック2000回、パンチ5000回に加え、ウェストツイスト360回、シットアップツイスト100回、レッグレイズ100回、ラーニングツイスト200回、カエルキック200回、、、、これだけでなくトレーニングは延々と続いたそうだ。

また2本の指での片手指立て伏せを軽々とこなし、一時期には人差し指1本で腕立て伏せが出来たという。100キロ以上のサンドバックを蹴れば天井にサンドバックが激突、小さいサンドバックは時に破裂したという。

ブルース・リーはモハメド・アリを参考に

意外過ぎるが、自らのカンフーを起源とするジークンドーに誇りを持っていたブルース・リーだが、トレーニングの際にモハメド・アリのシャドウボクシングの映像を鏡に映し、それが自身の動きになるまでシャドウボクシングを繰り返したという。これはあまり知られていないのではないだろうか。そしてモハメド・アリの全試合ビデオを保有していたという。このモハメド・アリの全試合ビデオを保有し毎晩欠かさず見て研究していたのが何を隠そうブルース・リー並の超人トレーニングしたマイク・タイソンである。ブルース・リーもまた哲学の講師をしていただけありトレーニングだけでなく武術への研究心は半端なかったようだ。

ブルース・リーの死因の謎

ブルース・リーの死因は上記で述べたように、女優の自宅で頭痛から頭痛薬を飲んで、意識不明でそのまま死亡とされており発表された

公式な死因は【脳浮腫】であり、死亡時に脳が13パーセントも膨張しており、また脳からは微量の大麻も検出された。致命的な故障であった仙骨の鎮痛薬と頭痛薬の危険な混合による副作用とされているが、実はいろいろな憶測が飛び交っている。

それは、腹上死、暗殺説など様々だ。

イリノイ州シカゴにあるクック郡医療検査官事務所のジェームズ・フィルキンスは死因を『癲癇(てんかん)』による突然死であると主張している。

ブルース・リーは、死亡直前の1973年5月10日、音声吹き込み中のスタジオで、昏倒し意識不明の重体に陥り病院に運ばれ入院し3日後の13日には退院している。

これは死亡の前触れであったのは間違いない。

香港政庁は死亡同年の1973年9月に死因究明裁判を行い『死因不明』と判決を下している。

実に謎に満ちている。

死因説、特に暗殺説に関してはYahoo知恵袋に詳しく網羅され解説してある。

東洋人ブルース・リーが世界に与えた影響

今想うに第二次世界大戦後のアメリカで、身体的に大柄な欧米人に対して圧倒的に不利であり”イエロー”と蔑まれた極東アジア人の行うカンフーや武術などそもそもが眉唾ものであったはずである中で、

身長171cm(一説には167cm)の細身、偉大なるブルース・リーは、当時今よりも顕著な白人至上主義のアメリカで、実力で豪腕のアメリカ人達を圧倒してしまった。

(ブルース・リーより以前には早川雪州というハリウッド初のアジア人が主役を張る日本人ハリウッドトップスターがいたが、)ブルース・リーのリアルな格闘家としての実力からくるアメリカでの活躍が無ければ、白人至上主義であった当時のハリウッドでその後に続くジャッキー・チェーンやショー・コスギなどのアクションスターも生まれなかったかもしれないし、そもそも東洋の武術、武道に対する今日のような尊敬と繁栄は得られなかったに違いない。

今では多くの欧米人が沖縄の伝統空手をはじめとする日本武道、東洋武術の道場に通い世界大会、オリンピックでは海外勢で賑わっている。

勿論これにはブルース・リーとほぼ同時代に、極真空手の大山倍達の喧嘩空手が強引な力技と漫画、アニメ、映画による商才あふれるプロモーションにより、欧米人を説得させてしまったのも大きいし、それよりも前の時代に圧倒的な強さの前田光世が喧嘩柔道を引っさげてのアメリカ遠征も大きかっただろうが、このような先人達の実力に基づいた活躍により我々日本人を始めとする極東アジア人の武術、運動能力の地位向上に役立ったのは言うまでもないだろう。

その活躍ぶりはアメリカ在住の圧倒的マイノリティー(少数派)であり、”イエロー”と蔑まれた極東アジア出身の人々を大きく勇気付けたに違いない。

我々アジア人にとって大きな誇りであるブルース・リー、そして筆者自身にとっては格闘家として最も敬愛する人物であるブルース・リー。

偉大なるブルース・リーから学ぶには、まだまだこれからもその足跡をたどる必要があるだろう。

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